「作詞家 西岡俊貴と社会(情勢)との大小関わり」

作詞家 西岡俊貴と社会(情勢)との大小関わり



作詞家 西岡俊貴という作品

 

〜作詞家 西岡俊貴という生命体に 関連性のある 「つづき物」的なものとなっております。少々ご注意を。



歌詞を意識してモノを始めて書いてから25年、
作詞家になろうと自然に決意していって親や先生に宣言しても
真剣に考えてもらえないので、ワシ自身もそこまで真剣になれないで一年ダラダラ過ごして
筋立てを人生に敷かなきゃと思っていって20年経ったので
振り返りつつ、上記のものと沿って書いていきます。
ただ道から逸れていると思われたりもあったりかなあと思うので、カオスです。
そちらは、まさに「カオス的な」とリンクされる感じにします。↓

o(゚∇゚*o)
でもそこも微妙にカオスで、修正するかもカオスです。

生誕の直前まで、母が小学校教諭として働き続け、卒業式の指導をするような人だったので、
ピュアな音楽を聴き続けて育っていった…のだなあと、今の作詞への強情なる傾倒に至って
いる、としている逸話が
ヽ(=´∇`=)ノ


最初の記憶は一体生涯何回目かの点滴を次兄とともに何かのパネル見ながら打っている弱々しいもの。
で、それが平成だったので、昭和の末に生まれて成長していけてよかったーと思う。
何となく渡ってこれてよかった。
社会の中では大きいような小さいような話だけど。
( ・`ω・)キリッ!


祖父が凝った庭を作るのがステータスと思っていたような時代の人だったので、
そこで一人遊びしても退屈しないような幼少期が根付く。自分ん家はお金持ちであり、それがずっと当たり前な
環境なヒトだと勘違いする。でも自然に親しみ、そういう情操教育はよかったのかな。
(´_ゝ`) プッ


基本的にインドアで家族全員インドアな趣味・仕事だったので、
字を覚えることに快感。
そしたら心も頭も創作も…なんでも真似っこからみたいな感じ。
でもあくまでインドアである
(‘;’)


そしてまあ!祖母が字の丁寧さにこだわる人だったので、それの派生のように、
とにかく暗唱とか?国語関連への意識が敷居なく芽生える。相撲にもやがてハマったので漢字も
自然に好きになる。
(^_^;))


ただ単に共働きだったからなんだけど、毎週末には焼肉や鍋ができて、それがどの家
でも当たり前で、お菓子も常備して衣食住満足なうえワガママ出来るから、それを
ワガママとも思わぬ勘違いなワガママ末っ子として過ごす。
(イトコの中でもそうで、一番上とは二回り位年の差があったりで)
(´_ゝ;)


兄弟三人とも幼・小と、別に速くないけれどスイミングに習いに行くことに。特に上二人が通っている時は
バブルとかもあって地方でもにぎわい気味で、ホントはしょぼいのだが、両親とショッピングで
チョー幸せだった。レッスンにおいてはキツイものの一応ちゃんと泳げるようになる。
(´_J`)


先生の仕事がある母と違って、父は土曜がやすみだったので遠慮なく2日間はかなり一人占めして
遊んだりが基本だった。病気になった時もいざってなると、向こうも相当ガリガリだったのに体張ってくれるのが
当たり前に感じられて、頼り甲斐は、今思えばあこがれだったし、何でも砕けた感じで語り合えて。
大甘の両親と名づけてしまう原点と言える。
これって父も末っ子だったことと、末っ子にも関わらず農家だったからかまってもらえなかった
反動だったのかなとも辛口に思う。
(・ω・≡・ω・)


童謡も音楽の授業もうたうのが大好きで(大概の年代で)母のピアノもその思いに拍車をかけて、
教えてもらうこともほとんどないから基本の練習はピアニカから始まる。音楽をあやつれることがらまらなく
て、泣いてでも音楽会の楽器を得ようとかする。まあ基本ワガママが響くような環境だったわけ。
(/ω\)


一人遊び以外は、別に都会に暮らしているわけではないけれど、兄とごっこ遊びするのが好き過ぎて、ぬいぐるみで
いろんな遊びをしたり、何故かかなりあるボードゲームをやって、何でも自前で考えるのがリズムになる。
(。・_・。)


小一入学前後に「星のカービィ」が発売してその絵描き歌とかわいいキャラにハマりまくる。まあとにかく
この時は子供向けアニメ中心なソングが好きだったし、まるで大人びようともせず、ただ絵のうまい兄に憧れたりとかで
無邪気で、ゲームもワシにしては珍しく没頭の度合いが高かったなー。
(´,_ゝ`) プ



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